「蒙使干(於)朝鮮国之命」と始まる律詩は、西郷隆盛漢詩全集(斯文堂 2010)等に所載されるように、有名な律詩である。明治元年(1868)に李朝が維新政府の国書の受け取りを拒絶に端を発した修好条約締結問題に、明治六年(1873)西郷の朝鮮への派遣が決定した時に詠まれた。前跋に徳富蘇峰と田中光顕、後跋に梅園良正。前後跋ともに昭和の年期を伴うことから、後に付記され、書巻とされたことがわかる。
付随する書簡は田中光顕が近森晴嘉に宛てたものである。
蒙使干(於)朝鮮国
之命
酷吏去来秋気
清鶏林城畔逐
涼行須比蘇武
歳寒操応擬真
卿身後名欲告
不言遺子訓雖
瞑(離)難忘旧朋盟
胡天紅葉凋零
日遥拝
雲房霜剣横
南洲拝
伏与
慈斧
『酷暑が去ってしまい、さっぱりした秋のけはいが出て来て、気持ちのよい時候となったが自分はこの度大命を奉じて朝鮮の京城城のほとりへ涼しさを追うて行く事になった。何という有難い事であろうか。いやしくも大命を奉じて行くからには、昔漢の蘇武が雪の日に守った美しい操に比すべき操を守り、唐の顔真卿が死後にのこした芳ばしい名に似通った名を揚げねばならぬ。自分は今決死の覚悟をしているので、子供等に教訓を残して置きたいとも思うがあえて言わず、旧友達に離れて再び会う事が出来なくなっても、以前に交した忠誠の盟は決して忘れる事ではない。やがていよいよ秋も深まり、北国朝鮮の紅葉が凋みおちるころには、自分は殺されるか自刃するかして問罪の皇帝が派遣される事になり、九重の雲深きあたりに、近衛兵の銃先に露と光る銃剣が林の如く連り立っている壮観を、草葉の陰からはるかに拝む事であろう。』
西郷隆盛(文政十・1827~明治十・1877)は薩摩藩士。通称を吉之助、号を南洲。薩長同盟の立役者で、戊辰戦争では江戸城の無血開城を実現させた。明治十年(1877)新政府軍に敗れて鹿児島で自刃。後、罪を許され、正三位を追贈された。
徳富蘇峰(文久三・1863~昭和三十二・1957) ジャーナリスト、評論家。徳富一敬の長男。徳冨蘆花の兄。民友社を創立、「国民之友」「国民新聞」を創刊。大日本言論報国会会長。肥後出身。同志社英学校中退。本名は猪一郎。
田中光顕(天保十四・1843~昭和十四・1939)政治家、陸軍少将、伯爵、宮内相学習院院長、警視総監。姓は浜田。名は顕助。号は青山。土佐藩士。武市瑞山に師事。明治維新に際して土佐勤王党に属して維新の王事に奔走し、明治元年兵庫県権判事となる。