今秋に開催される正倉院展(2018年10月27日~11月12日)の目玉の一つである「玳瑁螺鈿八角箱」(以下、正倉院八角箱)の伝来に関して極めて重要な情報を、掲出(古材唐櫃)の蓋裏の墨書(大正十三年(1924)十二月)に見ることになる。
「正倉院八角箱」については、類似する作品が二点伝存しており、その一である大和文華館に収蔵される玳瑁螺鈿八角箱(以下・大和文華館八角箱)には、真偽に係る風評が囁かれ、文化館も苦慮した気配が知られ、他の個人蔵の競売(サザビーズ・香港)に供された玳瑁螺鈿八角箱(以下、サザビーズ八角箱)には、「唐王朝の工芸品のうち最も貴重で間違いなく最も希少なものの一つである」とされ、産経新聞は「螺鈿八角箱 香港で競売へ、正倉院から流出?予想五億円」の見出しで大々的に紹介した。
以上の三点に係る問題を蓋裏の137文字が解決することになった。詳しくは弊社のカタログ(137文字の証言・第48号・p325-331・2009年)に譲るが、この唐櫃に収められていた二点の八角箱のうち一点は、
「この箱は正倉院御物八角箱を模造したものなり、武藤氏嘗て玳瑁螺鈿の断片を珍蔵せられき、これ實に御物の蓋に施せるもの、何時の世にか散逸せしものなり、氏これを保存せんが為に、同形のものを作りて装填せしめ」
と記録された「大和文華館八角箱」で、残る一点は、
「又別に、完全なるものを作りて対照に資せし(もの)なり」
とみてよい「サザビーズ八角箱」である。墨書に登場する三氏の略伝を付す。
武藤氏 武藤山治(慶応三・1867~昭和九・1934)は福沢諭吉の感化を受け、明治二十年(1887)銀座で日本最初の新聞広告取次業を起業し、新聞記者を経て、鐘紡(鐘渕紡績)の経営に参画した。鐘紡を四大紡績の一に成長させ、のち、政治運動に身を投じ政財界で重きをなした。昭和七年(1932)には政界からも引退し、師である諭吉の『時事新報』の経営に専念した。『時事新報』で帝人事件を暴いて政財界に衝撃を与えたが、その渦中に鎌倉の自宅近くで狙撃され波乱の生涯を閉じた。武藤の古美術蒐集は、その質の高さから評価を高くするもので、なかでも佛教美術では、武藤山治旧蔵の言葉は絶対的な支持で知られる。武藤がなした八角箱の復元は、現代の文化財の修復事業の先蹤をなすもので、その先見に驚くと同時に、一流の工人を駆使した復元は、美術品の再生のみならず創造と同義であることを証明した。
奈良の人堀部亘斎
堀部亘斎(亘哉)(明治十二・1879~昭和三十九・1964)は名は重雄、別号雪斎。正倉院の古器物の修理に生涯を捧げた吉田立斎に入門し、のち東京の渡辺喜三郎に師事して漆芸を学んだ。奈良へ戻り、立斎の末妹よねと結婚。春日大塗師職をはじめとする社寺の塗方を務め、「春日錆」とよばれる古色の復元に成功した。
十五堂識
水木要太郎(元治二・1865~昭和十三・1938)は愛媛県生まれ。不狐庵、茶丘、准南、十五堂と号した。松山中学校、東京高等師範学校に学ぶ。明治二十三(1890)年3月、奈良県尋常師範学校教員心得として奈良県に転住して以来大和郡山に居を構え、奈良県尋常中学校(郡山中学校、現郡山高校)教諭、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)教授、奈良帝室博物館学芸委員、史蹟名勝天然記念物調査会考査員等を歴任した。資料収集範囲は古代から近代までの文書、巻子、冊子、折本、刊本、写本、絵図、地図、古瓦類、建築古材等多岐にわたり、膨大な収集品は国立歴史民俗博物館へ移管され「水木コレクション」として現在まで研究されている。教え子である富本憲吉、小倉遊亀らに多大な影響を与えた。