男爵上田家御所蔵品并二某氏所蔵品入札(昭和八年)所載 伝上田宗箇所用 慶長十三年(1608)鞍墨識
鞍の居木裏に「慶長十三年(1608)三月十五日」、「天方山城(花押)」の墨書をみる。元禄十年(1697)五月二十一日付の辻左兵衛による折紙が付帯して、「天方山城守通綱」作の鑑定を確かめる。さらに、昭和八年
(1933)二月、広島市公会堂で開催された『男爵・上田家御所蔵品入札目録』(上田家の受爵位は明治三十三
年・1900)での掲出の売却が知られる。
上田家は茶人としても高名な猛将の上田宗箇(1563~1650)を初祖とする名家で、上田家は、代々にわたり
芸州浅野家の家老を務めた。掲出の作期(1608)は、宗箇の四十五歳時に相当する。掲出を宗箇所用の鞍・鐙とみても大過あるまい。
海有鞍・鐙ともに、梨地に波涛文を研出蒔絵する。前輪・後輪の裏、及び居木の表は叢梨地。鞍には上田家の表紋(釘抜紋)、鐙には裏紋の三階松紋(紋金物)を据える。(鐙には漆部に経年によるひび割れをみる) なお、鞍の作者である天方通綱(生没不詳)は、武人としての勇名だけでなく、鞍作りの名匠としても知られ、彦根の井伊家に「金梨地枝橘紋蒔絵鞍・同鞍」(寛永五・1628年)が残される。
通綱は、徳川家康に仕え数々の武勲を挙げて家康の信任を厚くしたが、家康の嫡男信康が、信長に謀反の嫌疑を受けた時(1579)、家康は信康に切腹を命じ、通綱は服部半蔵とともに、その検死の大任を託された。信康は切腹にあたり介錯を半蔵に願ったが、半蔵が強く固辞したため、代わって通綱が介錯したという悲壮な故事が伝わる。通綱は、介錯ののち、家康にはばかり、旗下を離れ浪人し、のち越前の結城秀康に見いだされ仕えた。