狩野永徳 牡丹小禽画幅

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品番
#031
サイズ
36×54 表具49×144
商品カテゴリ
作者
狩野永徳 Kano Eitoku (1543-1590)
最低入札価格
¥1,000,000.~
その他
付時代識箱(桐) 大倉好斎折紙 紙本 牙軸端 古香宗養箱識

物語

狩野永徳(1543-1590)は安土桃山時代を代表する画家。天文十二年正月、狩野松栄の長男として山城国で誕生。名を州信(一説に重信、本作折紙は州信とする)。俗名源四郎、法名永徳。祖父元信の指導により早くから画才を伸ばしたと伝わり、『言継卿記』によると、天文二十一年(1592)正月に帰洛した将軍足利義輝の許に、元信と共に挨拶に出向いたらしく、これが記録上の初出である。永禄九年(1566)には二十四歳にして大徳寺聚光院客殿の襖絵「花鳥圖」「琴棋書畫圖」(共に国宝)を描き、祖父の手法を創造的に発展させたその画風は、上洛した織田信長の認めるところとなり、天正二年(1574)信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外圖」屏風(重文)は永徳の筆による。同四年(1576)安土城築造に際し、永徳は一門を率いて天守や城内御殿の障壁画を制作する栄誉に浴す。『信長公記』によれば、それらは濃彩の花鳥や風俗名所を主体とした画期的作品であったと云うが、同十年(1582)明智光秀の謀反により、惜しくも消失。永徳は続いて豊臣秀吉に抜擢され、大坂城をはじめとして聚楽第、天瑞寺、御所など、相次ぐ大規模な建造に係る障壁画制作を命じられる。永徳は多忙を極め、同十八年(1590)八月九日、御所の襖絵制作途中に急死。妙覚寺の墓に眠る。晩年の遺品はその殆どが建造物と共に消失しており、確実な遺品は先述の二作のほかに「唐獅子圖」屏風(宮内庁蔵)など僅かである。

法印に叙されたという説には確証がないものの、秀吉から山城国大原郡に領地百石を賜っていたことからも、永徳は時々の権力者の期待に応え続け、その活躍によって狩野派画壇の支配的地位を確実なものにしたといえよう。その様式は一門画人達に留まらず、海北友松や長谷川等伯ら他画派にも大きな影響を与え、桃山時代絵画における新しい展開の原動力になったと評価できる。

参考文献『狩野永徳』(至文堂『日本の美術』94 武田恒夫編)

                   『狩野永徳伝の一節』(『近世日本絵画の研究』所収 土居次義)

                   「聚光院の障壁画と松栄・永徳」(『障壁画全集』大徳寺真珠庵・聚光院所収 辻惟雄)

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