古伊万里の研究家であった山下朔郎が、古九谷の伊万里焼成説を唱え、古九谷好きの反発を受けたのも懐かしい。大橋康二らによる窯趾の調査も進み、伊万里での古九谷手の一群の焼成地は伊万里(正確には有田)に決着し、古九谷は、古九谷手の呼称を受け入れることになった。
しかし、古九谷手は、加賀藩の注文による意匠の独自性を強く主張して、古九谷手の評価そのものを揺るがすことには繋がらなかった。
掲出は、団栗を食らう二羽の鳥を主題にするが、上辺の鳥が枝を揺らす瞬間を捉える動的な表現など、昔から言われた、「古九谷の絵は、本式の画匠の下絵による」を首肯させ、「伊万里の職人絵にはない」の言動を思い起こさせる。