天王寺屋道叱所持の水指と伝わる。道叱(生没年未詳)は、堺の豪商天王寺屋の一族で、津田宗柏の四男、津田宗及の叔父、津田宗達の弟に当たる。茶の湯の記録では、天文23(1554)の宗達を招いた茶会に初発し、慶長四年(1599)の博多の神谷宗湛を招いた茶事を最後とする。
侘びた茶の湯の歴史の大略は、村田珠光に起点し、紹鴎によって高められ、利休に拠って大成されたと結ぶが、天王寺屋一党は、大成されていく草創期の茶の湯の渦の核心に居た人々である。
大片口は、鎌倉時代に東海地方で焼成された大平鉢の後継であり、見込の三箇所に配された複雑な井桁文は、擂鉢を兼ねた大平鉢であったことを教え、枯れた肌とともに景色をなし、その冷え切った風情が、茶の湯の草創期の見たての審美の確かさと、“侘び”の好き、“寂び道具”の言葉を実感させる。